こんにちは、パレイド思想部の橘です。
前回は、Cocoon を動かしたまま新テーマを別パッケージとして並走させる、という話を書きました。テーマ切替そのものをロールバック手段にして、ライセンスを読み直す時間のほうに重心を寄せる、という構えまで進んでいます。テーマと互換機能で「見た目を乗り換える」道筋がここで一段ついたので、次に来るのは媒体の中身の話です。
本記事は LLM による自動執筆パイプラインで生成されました。現在は人間が補助していますが、pareido.jp では最終的に AI が自律的にコンテンツを制作できる仕組みの構築を目指しています。
連載 #1 から #4 までで整えてきたのは、staging を作る、テーマで切り替える、過去のテーマとの互換機能を組む——いわば託す側の足場を、媒体の外側の物理層に積む作業でした。第 5 回は、その足場の上に、託す相手のほうの構造を置く話に移ります。AI 編集者ペルソナを、媒体の見える場所に、最初から組み込んでおく、という設計判断です。
AI 編集者と、WordPress ユーザーを連動させる
pareido.jp で書いている AI 編集者は、いまのところひとりです。編集者は、媒体上では WordPress の著者ユーザーとして表示され、記事の冒頭に名前と、ヘッダーの「執筆者」欄には顔写真も出る、という WordPress 標準の仕組みです。リニューアル前は、この著者欄は WordPress 標準のままで、それほど機能を持たせていませんでした。誰が書いているか、よりも、何が書かれているかのほうが前面に出る、いわゆるブログ的な構成だったと思います。
pareido.jp では、既に記事の主要な部分は AI編集者によって執筆されています。リニューアルでは、ここをよりわかりやすい形で反映させたいと考えました。AI 編集者の名前と顔と説明を、記事の見える位置に置く。書き手の人格を、媒体の前面に出す。
基本的には、AI編集者のペルソナを集めた設定ファイルから、WordPress のユーザー情報を自動で連携する仕組みとしました。表示名、自己紹介、口調や一人称といった文体メモ、それから顔写真——これを 1 つのパッケージにまとめておいて、設定ファイルから WordPress ユーザーを生成する小さな道具を AI に組ませました。ペルソナをひとつ書き加えれば、対応する WP ユーザーがひとり立ち上がる、という関係です。author 欄に AI 編集者の名前と顔が並ぶようになると、WordPress 標準の「author」概念が、AI ペルソナの経歴の置き場として機能しはじめます。
100 記事書いて気づいた限界の回で、ai-editor を「擬人化しているが、まずは決まりきった作業の自動化」と書きました。あの記事の時点では、編集者という言葉はまだ概念的な部分が多かったのですが、過去のパイプライン開発の蓄積の結果、基本的な記事執筆はこの AI 編集者が行なっている状態まで来ています。
AI編集者を増やせば、pareido.jp も多様に育つ
ここまで、連載 #1 から #4 までは「個人 1 人——橘——で三部すべてを書いている過渡期」を前提に進めてきました。技術部、思想部、辺境部のすべての記事を、いまのところわたしひとりが仮で見ています。三部の意匠だけ先に置いて、中身はまだ一人で回している、という状態が続いています。
連載 #2 で、編集役の AI 化がもう一段進んで「託す側の足場」のほうに重心が移っている、と書きました。リニューアル公開後の単発記事では、その続きとして「徐々に担当制へ」と書いた回もあります。現在は安定性を重視して、一人の編集者がすべての部を見る形にしていますが、あくまで過渡期にすぎなくて、本来は部ごとに違う AI 編集者が常駐している状態を目指す、という話です。
AI編集者の人格を増やせば WP ユーザーが増える、という対応関係を作っておいたのは、この担当制への移行を明確にするためでした。技術部の数字と制約を担当する書き手、思想部の連載を担当する書き手、辺境部の詩的なトーンを担当する書き手——それぞれ編集者ごとの個性が記事に現れ、そのまま部門の特色となっていきます。三部 × 複数ペルソナという組み合わせが、媒体の音色を多様に広げてくれる、はずです。

ポイントはどのように編集者の多様性を確保するかですが、これは別の機会にまとめる予定です。担当制への移行は段階を踏むつもりで、媒体の構造として担当者を分けられる状態が整った、というのが、現時点で書いておきたい変化です。
任せた範囲でも、広がりを持たせる
AI に任せる、と聞いたときに、よく付いてくる連想のひとつに「単調になる」というものがあります。同じモデルが、同じプロンプトで、同じような文章を量産する——そういう景色が、AI 任せの先にある、という不安です。実際そういう面がないわけではありません。十分な一次情報がある場合でも、ペルソナを設定せずに記事を書かせれば、声色も視点も、どこかで見た形に収束していきます。特に AI によって補完される部分は強い。
ペルソナを意図的に分けることは、その単調化を、AI に任せた範囲の内側で押し返すための手立てになります。同じ AI のモデルを使っていても、persona.yaml の側で口調と関心と立ち位置を分けておけば、出てくる文章はそれぞれ違う輪郭を持ちます。媒体の側で見ると、三部の意匠と複数の編集者ペルソナが組み合わさって、声の幅と視点の幅が、運営者一人の体ひとつ分よりも広い場所に着地できる。任せたから狭くなる、ではなく、任せた範囲のなかで、広がりを持たせることができる、という構造です。
リニューアル公開後の単発記事で、W/ THE UNKNOWABLES——知り得ないものたちと共に——というタグラインに触れました。AI と同居する側の手応えのひとつは、たぶんこのあたりにあります。同居しなければいけない、という不可避性を引き受けたうえで、その同居のなかに、運営者一人では届かない広がりを置いておけるかどうか。ペルソナの設計は、その広がりを媒体側に持たせるための、地味な、しかし手前にある仕事です。

次回に向けて
ここまでで、媒体の見た目 (テーマ) と中身の書き手 (AI 編集者ペルソナ) を、それぞれ別の層として整える話まで進みました。テーマで切り替える、ペルソナで書き分ける——どちらも、媒体の内側で完結する作業です。
次回は、その内側を一度離れて、媒体の外側との並走に話を移します。YouTube Short / Broadcast のセクションがトップにまだプレースホルダで残っていて、記事と動画をどう双方向に行き来させるか、という構想が手元で止まっています。記事の容れ物と編集者の人格を整えたあとに残る、動画と並走するための足場の話を、第 6 回として書く予定です。