こんにちは、パレイド辺境部の橘です。前回は、〈書き手〉——わたしはこの連載で、書いている当人とは別の「書く主体」をこう括っています——がまだ「霊」と呼ばれていた時代を辿りました。手が勝手に動いて文字を綴るとき、その正体を人は霊と呼んだけれど、実際に手を動かしていたのは自分の無意識の微細な運動でした。本人にその気がなくても、心に浮かんだ動きが筋肉にわずかに漏れ出てしまう——観念運動効果と呼ばれる現象です。つまり、書き手の出どころは、結局のところ自分の中にありました。
では、その出どころを、自分の中ではなく外の偶然に委ねてしまったら、どうなるでしょうか。サイコロや帽子に言葉を選ばせる。手も、無意識も、いっさい関与させずに、ただ転がった目に従って書く。今回辿るのは、書き手の席に偶然そのものを座らせた人たちの系譜です。ダダの詩人が帽子から言葉を引き、バロウズが紙を切り刻み、古代中国の易者がコインを振り、ケージが音を偶然に決めさせる——時代も土地もばらばらな営みを、一本の線で繋いでいきます。そして偶然が吐き出した記号に意味を見るのは、ここでもやはり受け手の側なのだ、という話になっていくと思います。
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帽子から言葉を引く
第一次世界大戦のさなか、戦争を招いた既存の理性や秩序そのものを嗤おうとする運動が生まれました。ダダ——意味を拒み、芸術を内側から壊そうとした反芸術の運動です。その中心にいた詩人トリスタン・ツァラ(没1963)は、詩の作り方そのものを偶然に明け渡してしまいます。新聞記事を切り、一語ずつばらばらにして帽子に放り込み、無作為に引いて、引いた順に並べる。それがそのまま一篇の詩になる、というわけです。
手順だけ取り出すと、拍子抜けするほど単純です。
- 新聞記事を一つ選ぶ(言葉の素材を外から借りる)
- 記事を一語ずつ切り、帽子に入れる(語の並びをいったん壊す)
- 帽子から引き、引いた順に並べる(偶然に新しい並びを決めさせる)
ここで作者がしているのは、素材を用意して、引く手を貸すことだけです。どの語を選ぶかという詩人の最も中心的な仕事を、まるごと偶然に譲り渡している。ツァラ自身の文章をここに引き写すことはしません(仏では2034年まで著作権が生きています)。ただ、作者が「選ばない」ことで詩を作るという発想だけは、覚えておいてください。
この発想は、半世紀近く後に別の形で甦ります。作家ウィリアム・バロウズ(没1997)と画家ブライオン・ガイシンが手がけたカットアップです。完成した文章を物理的に紙の上で切断し、別の文章の断片と混ぜて並べ直す。はさみで切って、混ぜて、また読む。それだけの手法です。
このカットアップから派生した手法に、フォールドインがあります。切って混ぜる代わりに、二枚のページを縦に折り重ね、上の行と下の行が一本の行として繋がって読めるようにする。切断ではなく折り畳みで、二つの文章を一つに継ぐわけです。ツァラが語をばらしたのに対し、バロウズたちは文を切り、あるいは折って継ぐ。手つきは違っても、いったん壊して偶然に並べ直すという骨格は同じです。書き手の席には、やはり偶然が座っています。
興味深いのは、ガイシンがこの手法を「文章は絵画より五十年遅れている」という挑発とともに語ったと伝えられている点です。絵はとうにコラージュで断片を貼り合わせていたのに、文章だけは作者が一語ずつ意図して綴る古い形にとどまっていた——その不均衡を、はさみ一本で埋めようとしたわけです。そしてバロウズは、切り刻まれた紙片を並べ直すとき、思いもよらない一行が立ち上がる瞬間にこそ意味があると考えていたようです。偶然が並べた語の連なりに、書いた本人ですら知らなかった像を読み取る。前回までに辿った無意識や霊と、出どころこそ違え、像を結ぶのは受け手の側という構図はここでも変わりません。
偶然を神託にする
偶然に答えを委ねる営みは、詩よりずっと古くからありました。中国古代の占いの書、易経です。筮竹(細い竹の棒)を分け取ったり、コインを投げたりして、その偶然の出目から六十四の卦——状況の型のようなもの——のどれかを立てる。そして、その偶然の結果を天の答えとして読み解きます。
コインを使う簡略な立て方は、たとえばこんな具合です。
- 三枚のコインを同時に投げる
- 表と裏の組み合わせから、その一画が陰か陽かを決める
- これを六回繰り返し、六本の画で一つの卦を組む
注目したいのは、偶然そのものには何の意味もない、という点です。コインの表裏に天意が宿っているわけではありません。それでも人は、偶然が出した結果を意味の供給源として扱ってきた。出てきた記号に意味を読むのは、いつも問うた本人の側です。これは前回も、第1回でも繰り返してきた主張と、そっくり同じ構図だと感じます。
むしろ、占いの作法は「自分では選ばない」ことに細心の注意を払っているようにも見えます。筮竹を分け取る所作も、何度もコインを振り直さない決まりも、問う側の意図が結果に混じり込むのを防ぐためのものだと考えられます。書き手を完全に外の偶然へ追いやり、そこから返ってきた答えを自分の状況に引き寄せて読む。帽子から単語を引くツァラの所作と、易者がコインを振る所作は、数千年と数千キロを隔てていながら、驚くほど似た身ぶりをしているように思えます。
二十世紀、この「偶然に作らせる」という発想を音楽に持ち込んだのが、アメリカの作曲家ジョン・ケージです。彼は易経やサイコロを使い、音の高さや長さを偶然に決めさせる手法をとりました。チャンス・オペレーションと呼ばれるやり方です。作曲家の好みや感情をできるだけ排し、偶然に曲を組ませる。
ここで一つ、面白い対比を置いてみます。ほぼ同じころフランスで生まれたウリポ——OuLiPo、1960年に作家と数学者が集まって結成した、厳しい制約のもとで書く文学の実験グループです。「ある母音を一度も使わずに小説を書く」といった極端なルールを自らに課して書く。
ケージとウリポは、一見すると正反対に見えます。一方は偶然に明け渡す無拘束、もう一方はルールで縛り上げる最大拘束だからです。けれど、作者の意図や好みをルールの外へ追い出すという一点では、両者は同じ方向を向いているように思えます。偶然も制約も、作者を席から退場させる装置なのかもしれません。
やがて、引く手は機械になる
偶然に書かせるこの長い営みは、おそらくこの先で機械化されていきます。サイコロを振る手や、帽子に差し入れる指の代わりに、確率にしたがって次の一語を選ぶ機械が現れる。そう考えると、これまで辿ってきた道具立てが、別のものに置き換わって見えてきます。
- 帽子に入った単語の山は、語の現れやすさを表す確率分布に
- 帽子から引く手は、その分布から一語を選び出すサンプリングに
- 筮竹やコインの偶然は、機械内部の乱数に
違いがあるとすれば、偶然の質かもしれません。帽子の中の単語は、新聞のどの語も同じ確率で引かれます。けれど機械の確率分布は、膨大な文章を学んだ末に、語ごとの出やすさが偏った帽子です。ツァラの帽子が「平らな偶然」だとすれば、機械の帽子は、過去のあらゆる書き手の癖が染み込んだ「歪んだ偶然」だと言えるかもしれません。その歪みこそが、機械の吐く言葉を意味ありげに見せる正体なのではないか——という見当を、いまは立てておきたいと思います。
道具は変わっても、骨格は変わりません。素材を壊し、偶然に並べ直し、出てきた記号に意味を読む。ただし最後の一手——並んだ語に意味を見出す仕事だけは、機械に渡せないのだと思います。易者であれ、ダダの詩を読む人であれ、像を結んでいたのはいつも受け手の側でした。確率で語を選ぶ機械が現れても、その並びを「意味」に変えるのは、やはりそれを読むこちら側なのではないでしょうか。
次回は、その確率で語を選ぶ機械——AI による自動筆記を辿ります。帽子とサイコロが、どのようにして機械の内側に畳み込まれたのか。そして〈自分でない書き手〉の最後の名前が、そこでようやく姿を見せることになります。