こんにちは、パレイド辺境部の橘です。
前回は、スペインの小さな村の台所に浮かんだ「ベルメスの顔」を辿りました。削っても削っても床に顔が戻ってくる、あの半世紀の騒動です。今回は予告どおり、舞台を日本へ移します。床のシミではなく、生きものの蛹が「後ろ手に縛られた女」に見えた事例。播州皿屋敷のお菊が虫の姿になって現れたと噂された、「お菊虫」の話です。
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蛹が大発生した年
1795年、寛政7年。播磨の姫路で、ある虫の蛹が大量に発生したと伝えられます。ジャコウアゲハという蝶の蛹です。木の枝や壁にぶら下がって越冬するその姿が、後ろ手に縛られた女性の格好に見える。そこから、播州皿屋敷のお菊の幽霊が虫に姿を変えたのだ、という噂が姫路の人々のあいだに広まった、と Wikipedia や神戸新聞の記事は伝えています。わたしはその年の姫路を歩いたわけではないので、以下はこうした文献の記述をなぞる話として読んでください。
www2.ffpri.go.jphttps://www2.ffpri.go.jp/cherry/chou/ageha/jyakou/4_jakouageha.htmlwww2.ffpri.go.jp面白いのは、その後の顛末です。恐れられただけで終わらなかった。「お菊虫」は名物になり、戦前までは土産物として売られていたと伝えられます。怪談の当事者が、そのまま商品棚に並んだわけです。そして時代がさらに下ると、今度は姫路市の市蝶に指定されました。井戸のお菊の化身とされた虫が、いまでは市を象徴する蝶として扱われている。恐怖から土産へ、土産から市の顔へ。ひとつの見立てが、二百年をかけて意味を塗り替えられていった経緯そのものが、この事例のいちばん興味深いところかもしれません。
www2.ffpri.go.jphttps://www2.ffpri.go.jp/cherry/chou/ageha/jyakou/4_jakouageha.htmlwww2.ffpri.go.jp皿を数える声と、後ろ手の姿
そもそも播州皿屋敷とは、どんな話だったか。奉公人のお菊が、家宝の皿を一枚紛失した罪で、あるいは無実の罪を着せられて殺され、井戸に沈められる。夜ごと井戸の底から「一枚、二枚……」と皿を数える声が聞こえる。数え終える前に、九枚で声が途切れる。日本の怪談のなかでも、もっとも人口に膾炙した井戸の物語のひとつです。数え歌のように繰り返される皿の枚数と、決して十まで到達しない不足の感覚が、この話に独特の後味を残しています。

commons.wikimedia.orgFile:ShunsenOkikumushi.jpg – Wikimedia Commonscommons.wikimedia.org
では、なぜジャコウアゲハの蛹が、その「後ろ手に縛られた女性」に重ねられたのか。蛹の姿を見ると、確かに、胴を反らせて何かに背中で吊るされたような輪郭を持っています。頭を垂れ、腕を後ろへ回された人の姿と言われれば、そう見えなくもない。加えて、体表にある斑点を、責め苦の血に見立てる語り口もあったと伝えられます。縛られた女、垂れた首、点々と散る血。井戸で殺されたお菊という物語が先にあり、その物語を受け止める器として、たまたま人の形に近い蛹が選ばれた。順序は、蛹が先で意味が後ではなく、物語が先で虫が後だったように、わたしには感じられます。

ベルメスの床が、削っても戻る不気味さで人を引き寄せたのに対し、お菊虫は、すでにある悲劇の物語を虫の背に読み込むことで成立しました。同じパレイドリアでも、片方は「像そのものの謎」を核に持ち、もう片方は「先にある物語」を核に持つ。人が偶然の像に何を重ねるのかは、事例ごとにずいぶん違います。
機械はこの蛹に、何を見たか
日本人面地形や擬態岩探訪、そして前回のベルメスで使ってきた顔検出器を、ジャコウアゲハの蛹の実写にも向けてみます。使用したのは Wikimedia Commons に置かれた蛹の写真です。断っておくと、これは姫路のお菊虫そのものの写真ではありません。同じ種であるジャコウアゲハの蛹の、ごく一般的な実写です。二百年前の姫路の個体を撮った写真は手元にないので、あくまで「同種の蛹を機械はどう見るか」という代役として扱います。

結果は、そろって沈黙でした。局所の明暗を拾う Haar、5点の幾何配置で判定する YuNet、478点のメッシュを張ろうとする MediaPipe。基準の異なる三つの機械のどれもが、この蛹から顔を一件も見つけませんでした。ゼロ件です。前回のベルメスでは、いちばん基準の緩い MediaPipe だけが低い確信度で人の語った場所を囲みました。ところがお菊虫では、その最も緩い目でさえ何も反応しなかった。人が「後ろ手の女」を見た虫の背に、機械は顔の手がかりを一つも置きませんでした。
この構図は、日本人面地形の連載で何度も出会ったものと同じ型です。人が「顔だ」と語り継いできた場所に機械を向けると、機械はしばしば何も見つけない。人の見立てと機械の判定のあいだには、はっきりとした隔たりがある。お菊虫では、その隔たりがベルメスよりもさらに広がりました。ベルメスの床は、少なくとも緩い目には引っかかった。お菊虫の背は、緩い目にすら引っかからなかった。人間の側が虫の背に読み込んだもの(縛られた女、垂れた首、血に見立てた斑点)は、機械の顔判定の座標には一つも乗らなかったわけです。
ただし、この沈黙を「パレイドリアが起きなかった証拠」と読むのは行き過ぎです。機械が黙ったのは、今回使った Haar・YuNet・MediaPipe という三つの検出器の基準に、この画像が満たなかったというだけのことです。別の検出器なら、あるいは別の角度で撮られた個体なら、結果は変わったかもしれません。それでも、シミの偶然(ベルメス)よりも、生きものの模様の偶然(お菊虫)のほうが、機械の顔判定からはさらに遠い場所にあった。この一枚は、そのことだけは静かに教えてくれます。人が縛られた女を見た背中を、機械は蛹の背中としてしか受け取らなかった、と書いておきます。
床から虫へ、そして次の一件
人が顔を見た場所の正体を辿る。それが、日本人面地形や擬態岩探訪、機械に棲む山彦、そしてこの連載を貫く一本の線です。地形や岩という自然物を追った姉妹連載に対し、この奇譚はシミや虫や標本という、人の暮らしにもっと近い像を扱います。ベルメスの床とお菊虫の蛹を並べてみると、同じ「偶然の像」でも、人がそこに何を重ねるかで話の重心がまるで違うことが見えてきます。像そのものが謎を呼ぶ床と、先にある悲劇が虫に降りてくる背中。機械はどちらにも、人ほど雄弁ではありませんでした。
次はまた別の一件を辿るつもりです。市場に並んだ人面魚か、あるいは秩父の珍石館に集められた人面石か。どちらも国内の、人が顔を見た場所です。ただ、掲載に足る実写をまだ調達している途中なので、今回は行き先を断定せずにおきます。床から虫へ、虫から次のどこかへ。顔を見た場所を、もう一件、辿りにいきます。